kindle デビュー。

 

読みたい本がある。

 

近所の本屋さんに行く。

 

探しても見つからない。

 

検索システムを使うと「在庫なし」の表示。

 

仕方なくアマゾンでポチり。

 

次の日コンビニに届いてる。

 

分厚いダンボール包装紙を破る。

 

薄いビニール包装も破る。

 

 

 

 

こんな行動パターンを変えてみようと、

 

Kindleを始めた。

 

記念すべきファーストダウンロードは、

 

木皿泉さんの「さざなみのよる」。

 

読みたい→ダウンロード→子どもが寝た後のリビングにて2時間で読了。

 

あっけないほど簡単に手に入り、あっけないほどスピーディーに読み終わった。

 

でも、内容が本当にすばらしかった。

 

コンテンツが生み出す感動は、紙でもデジタルでもまったく変わらない。

 

木皿泉さんの本は、日常生活の中でおいてけぼりにしてる

 

自分の心や記憶の片隅にすーっと入り込んできて、

 

ザラっとした残像や発することが出来なかった言葉たちや

 

もう二度とするまい、と固く誓った事などを思い出させる。

 

仕事に育児に家事にあわただしく過ぎる時の中で、

 

本とかKindleとか関係なく、

 

とにかく何かを読んで心を動かされたことがうれしかった。

 

 


「食堂メッシタ」

 

食堂のおばちゃん、こと山口恵衣子さんの「食堂メッシタ」。

 

東京・目黒に実在したイタリア料理店「メッシタ」とその女性料理人鈴木美樹さんをモデルにした小説だ。

 

彼女はなぜイタリア各地の料理が作れるシェフを目指したのか。

 

そしてイタリアでの修行の日々。

 

帰国後、在籍した六本木「アモーレ」での“導火線のめっちゃ短い”尊敬すべきシェフとの日々。

 

アモーレ閉店後、450万円を持参して毎日毎日、これでもか、と食べ続けたイタリアでの一皿一皿。

 

一途に、何かを追い求め、そして出会った輪郭を形にしたのが「メッシタ」だった。

 

 

読んで感動した、とか

 

おもしろかった、とか

 

イタリアン食べたくなった、とか

 

そういう次元ではなく、

 

感じたのは、やっぱり美食と腕のいい料理人は東京に集中している。

 

もう地方においしいものは残されていない、という現実だ。

 

そんな風に言い切るのは乱暴かもしれないけれど、

 

かつて田舎でおいしいものを作っていた料理人たちが幕を下ろそうとしている終焉期。

 

食材も確かな腕も、それらに敬意を表して支払われる金銭も、

 

すべてが田舎から少しずつ消えようとしている気がする。

 

 

 

 


ドラマと原作、まんが

 

長年、文庫化するたびにそろえてきた「きのう何食べた?」のドラマが最終回を迎えた。

 

キャスティングもぴったりだったし、

 

原作に忠実にストーリーが展開し、その上、微妙な空気感もきちんと醸し出されていて、

 

本当によく出来たドラマだったと感心する。

 

 

 

 

だからこそ最終回最後のシロさんとケンジのアドリブがたまらなく良かった!

 

ケンジの突拍子もないアドリブに、西島秀俊がうろたえながらもなんとか「シロさんとして」返す。

 

ケンジとシロさんは、西島秀俊と内野聖陽以外にあり得ない。

 

特に内野聖陽さん。

 

私の中で、坂本龍馬は内野聖陽以外ないし、ケンジも内野聖陽以外なし。

 

唯一無二の役者さんだと再認識した。

 

 

 

 

原作の映像化といえば、三浦しをんの「舟を編む」をDVDで観た。

 

こちらの原作には、登場人物それぞれの立場に芽生える辞書作りへの熱き思いが緻密に描かれているけれど、

 

それを映画の中で表現する、という点においては、残念な仕上がりだった気がする。

 

もし、お願いできることなら、オダギリジョーに「器用な人間が抱く葛藤」をもっと演じてほしかった。

 

辞書編集部で、辞書作りへの情熱もなく、ヘラヘラとうわべの営業トークで日々を過ごす彼が、

 

人生をかけて辞書づくりに挑もうとする馬締(松田龍平)に出会い、

 

中身のないモナカみたいな自分の生き方にほとほと愛想がつき、

 

そして、激しく嫉妬し、そして、自分にできることをやろうと決意する、その姿を描いてほしかった。

 

 

 

 

ここで思い出すのは、「桐島、部活やめるってよ」に出てくる東出昌大の演技である。

 

運動神経抜群で器用でカノジョもいて、桐島の親友という設定の彼が、

 

映画オタクの神木隆之介からカメラを向けられ、

 

情熱を傾けられるものがない自分に絶望する瞬間である。

 

あの映画は、あの瞬間を描くためだけにあるのでは、と思う。

 

 


「こころの子育て」(河合隼雄著)朝日文庫

 

育児にまつわる本を探して本屋さんをぶらぶらしていると、

 

「頭の良い子を育てる方法」とか「こうすれば進んで勉強する子になる!」とか、

 

なんとハウツー本の多いことか。

 

 

 

 

その中で手に取ったのが河合隼雄先生の「こころの子育て」。

 

Q. 「お母さん」になると「私」でなくなるようで怖いです。

A. その両方をどう生きるかが、その人らしさなんです。

 

Q. ボーッとしていることがよくあります。心配ないですか。

A. そのように見えるときこそ、こころが育っているんです。

 

Q. 早期教育は子どもにプラスですか?マイナスですか?

A. 就学前に大切なのは勉強ではない、自由な遊びです。

 

Q. 思春期までに親としてやっておくべきことは何ですか?

A. 「ああおもしろかった」という体験を貯金しておくことです。

 

 

 

いいですね−。

 

なんだか安心します。

 

 

 

 

 

 

我が家の息子、2歳をすぎても言葉が遅くて、

 

保育園の同じクラスのお友達が2語文をしゃべるなか、

 

おうちでもママ−、パパ―、アー、ウーですべてまかなう始末。

 

最近では「ママ−」で喜怒哀楽を器用に表現するようになり、

 

こちらの方も「ママー」の声の張り上げ方、リピートの回数、イントネーションだけで、

 

何を欲しているのか大体わかるようになってきました。

 

 

 

 

焦るほどのことではないけれど、もっと気にした方がいいのか。

 

親としての対応をふと考えるなかで出会ったのが、この本。

 

 

 

 

「センス・オブ・ワンダーを探して」阿川佐和子、福岡伸一著 だいわ文庫

 

そのなかで阿川佐和子さんが「メアリー・ポピンズ」の一節を紹介してくれています。

 

メアリー・ポピンズは双子の赤ちゃんのお世話をしていて、赤ん坊と心が通じ合っていて喋れるんだそうです。

メアリー・ポピンズによると

「赤ん坊は言葉を覚える前はすべてのことがわかっていて、私と喋れる。

その記憶は人間の言葉を覚えた途端に抹消される」

らしいです。

 

 

 

この一節は阿川さんにとってのセンス・オブ・ワンダーであり、

 

ずっと心に残っているそうです。

 

 

 

 

子ども時代がおとなになったときの自分を支える。

 

そう思うと発話にやきもきするよりも、

 

子どもが目を輝かせるような体験を積み重ねることが大事なのかな、

 

とすとんと落ちました。

 

 

 


ジョゼと虎と魚たち


今更ながら、wowowで放映されていた「ジョゼと虎と魚たち」を観た。

恒夫役の妻夫木聡は彼以外かんがえられないくらいハマっていた。

ふつーの若者の役をやると彼の右に出る者はいない気がする。

彼が見せる表情のひとつひとつに、過去に自分が見た誰かの表情を思い出してしまう。



ジョゼと恒夫はひょんなきっかけから付き合って、そして別れてしまうけれど、

ラストシーンで電動車いすを自在に操るジョゼの姿が自由で、凜としてて、自立してて、素敵だった。

障害の有無にかかわらず、恋愛をした女としたことない女ではこうも違うのか、という感じ。

「わたし、恋したことあるんですよ」って感じのプライドを振りまきながら颯爽としていた。



長屋の押し入れで古本に囲まれて空想の世界に生きていたジョゼが、

恒夫との出会いから自分の意志でどこまでも行って、みて、さわって、世界をぐいーっと押し広げて、

その勢いで、これから彼女は自分の人生をまた自分らしく生きていくんだろうな。

なんだか希望がある。

犬童監督の作品すきです。

映像が美しい。そして画面に余韻があるのです。

 

「リトルフォレスト」


映画「リトル・フォレスト」をwowowで観ました。

目が釘付けになるほどに美しい日本の四季と橋本愛ちゃんのひたむきな演技に引き込まれてしまいました。



東北地方のとある山里「小森」で生まれ育った主人公イチ子が、

一度は「街」に出るものの、またふるさとに帰ってきて、その土地に根付いた暮らしを自分なりに身につけて生きていく。

小森の暮らしは自給自足。

収穫したものを手を掛けて保存し、その惠みを食し、日々を生きる。ただそれだけ。

それだけなのに、街の暮らしを知ってしまったイチ子にとって「小森の暮らし」は過酷でありながら純粋で、尊い。

だから、きっと「こんな自分でいいのかな」「小森に失礼なんじゃないかな」という疑問が生まれてきたんだろうね。

そして、イチ子はまた小森を出て行く。



取り立てて大きなストーリーがあるわけじゃないけれど、

美しい風景の映像とイチ子が自然の恵みから作り出す「dish」が観るモノの五感をガンガン刺激してくれるのです。

ドキュメンタリータッチでセリフも少ない作品だからこそ、

幼なじみの男の子が吐いた言葉がくっきりと浮かび上がって映画の強烈なメッセージになっています。




なんにもしたことないくせに、なんでも知ってるつもりで
他人がつくったものを右から左へ移してる奴らほど威張ってる。
薄っぺらな人間の空っぽな言葉を聞かされるのもうんざりした。

他人に殺させておいて
殺し方に文句つける様な
そんな大人にはなりたくないと思っている。



 

映画「メイジーの瞳」


またまた早朝のwowowシネマでついつい見入ってしまった映画がこれ。

「メイジーの瞳」。



ヨーロッパとアメリカを行き来する美術ブローカーの父親と

全米ツアーで留守がちなロック歌手の母親が離婚するも、

それぞれが一人娘メイジーの親権を主張。

裁判の結果、10日おきに双方の家を行き来することになったメイジーです。

ところが、父親も母親も仕事に忙しく、メイジーの世話などできるはずもなく・・・。

挙げ句の果てに、父親はメイジーの子守だった若い女性と結婚して

彼女にメイジーの世話を押しつけます。

そうと知ったロック歌手の母親は、バーテンダーの若い男と結婚して、

これまた彼にメイジーの世話をさせるのです。

そのうち「10日ごとルール」も形骸化し、メイジーを主体的に世話するのは、

父母それぞれの新しいパートナーとなった元子守の女性とバーテンダーの男性。



親権は主張しておきながら、義務はなおざりにする実の両親ですが、

メイジーに会えば必ず「キスの嵐」と「愛してる」のシャワーです。

観ているうちに、それらの愛情表現がほんとーに軽薄に見えてきて、

「なんだこの親は?!」という気分にさせられます。

その一方で、元子守の女性は、パンケーキを焼いたり、海辺のコテージに連れて行ったり、

親じゃないけど、愛情たっぷりにメイジーに接します。

若いバーテンダーだって、メイジーの学校のお迎えをしたり、

引き取り手のないメイジーをバーの片隅に座らせて相手をしてやったり、

どちらもすごく献身的。


メイジーの瞳は、だれに、どこに、本物の愛があるのか、しっかり見通しているけれど、

それをおくびにも出さず、ただ、無邪気に子供として甘えているように見えます。

こどもなのにおとな、おとななのにこども。

そんなメイジーの心理を、ほとんどセリフなしに演じているこの子役さんはすごい!


現代日本でも「放置子」なる言葉があるほど、

親から構ってもらえない、あるいは、十分に世話を受けていない子供が増えているそう。

愛情不足はこどもの瞳を曇らせる。

そんな気がした夏休み最期の早朝でした。

 

映画『さよなら、アドルフ』


最近、早朝5時くらいに目覚めることが多いのですが、

wowowではその時間帯に、なんとなく静かな映画を放映していることもあって、

ついつい見入ってしまいます。

数日前は、1973年のアメリカ映画「追憶」を観て、

イケメンのロバート・レッドフォードに心奪われかけました。



今朝は、オーストリア・ドイツ映画「さよなら、アドルフ」を観ました。

第二次大戦終結直後のドイツで、ナチスの高官を父に持つ幼い兄弟姉妹が、

父も母も出頭して消え失せ、子供達だけで900キロの道のりを歩いて、

祖母のいるハンブルグへと向かうロードムービーです。



主人公といえるのは、10代半ばくらいの長女ローレ。

幼い姉弟と赤ん坊を連れて、ハンブルグへと向かうのですが、

訳が分かっているのは自分だけという責任重大な状況で、

ガチガチに気が張り詰めている様子が画面から伝わってきます。


しかも、ナチス万歳・ユダヤヘイトと信じていたのに、

旅の途中でホロコーストの真実を知り、強姦されて殺された生々しい死体を見て、

泥の川で体を洗い、死体から壊れた時計さえも盗む生活。

だんだんと食糧をもらうためなら裸にもなろう、という根性が生まれてきます。

途中からユダヤ人の青年に助けられ、大嫌いなユダヤ人に依存している自分に気づく。

それまで信じていた価値観がガラガラと根底からくつがえされる。

たぶん。


そう、推測することしかできないのは、

ほぼ全編で、主人公ローレが感情を吐露することがないから。

最少のセリフと目の動きだけで、淡々と旅路が描かれるのです。



全編109分中100分くらいの間、画面に抑圧感があったからこそラストシーンが見事でした。

ハンブルグに到着するとおばあちゃんは今までと何ら変わらない生活をしていました。

お湯がたっぷりのお風呂で体を洗って、

メイドによってきれいにテーブルセッティングされた食卓につくと、

弟は旅のくせが出て、ついついお祈りも忘れてパンに手を伸ばします。

「しつけがなってない」と激高するおばあちゃん。

それを見て、ローレはまるで動物のようにパンを口に放り込み、がつがつと食らいつくのです。

思想も信条も価値観もすべてを失ってただのヒューマンビーイングに戻った瞬間の象徴でした。



ストーリーらしいものが全くないので、

「これってどういう終わり方するんだろう」という好奇心だけで、

最期まで見続けた感じなので、「オススメする?」と尋ねられれば、「どうかなぁ」という感じ。

でも、映像の記憶って人生のふとした瞬間によみがえることがあって、

そういう意味でのストックにはいいかも知れません。

今日は、梅雨の曇り空もあいまって、一日陰鬱とした気分になりました。

きっと、いつか、どんよりした日には、

早朝からこんな映画を観たことを思い出す日がくるかもしれません。
 

「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」


やっと徳島で公開になった「イミテーション・ゲーム」。

第二次世界大戦下のイギリスで、

若き天才数学者のアラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)が、

ドイツの世界最強の暗号エニグマを解き明かすストーリーです。


同性愛者で天才が故に人の気持ちを推し量ることが苦手というアラン・チューリング。

その独善的な性格から次第に暗号解読チームの仲間とも対立していくのですが、

彼の理解者として、キーラ・ナイトレイ演じる才女ジョーンが現れます。


アラン・チューリングの複雑な人格とその偉業をうまくまとめた映画でしたが、

hanakoにとって一番印象的なシーンは、

キーラ・ナイトレイがベネディクト・カンバーバッチに

ぱーんと平手打ちをくらわせるところです。

まるで画面が一瞬静止したかのように鮮烈なビンタでした。

彼の心の中までひっぱたいた感がでていました。

キーラ・ナイトレイって、平手打ちさせたら世界一?

というくらい厳しく、美しく、きまっていました。

さらに真骨頂は、キーラ・ナイトレイがもう一回平手打ちしようと手を上げかけたけど、

思いとどまって、ひどい言葉を浴びせかけるシーン。

女ですね−。

思いとどまった一瞬で、暴力よりももっと彼を傷つける方法を見つけた感じがよく出ていました。

 

映画「ブルージャスミン」



ウディ・アレン監督の「ブルージャスミン」をwowowで観ました。

雑誌などで「おもしろい」と評価高かったので、楽しみにしていた作品です。


セレブ生活から一転、夫の詐欺まがいの仕事からすべてを無くした主人公ジャスミンは、

安アパートで低賃金の仕事をしながら子どもを育てている超庶民な妹の家に転がり込みます。

すっかり落ちぶれてしまったジャスミン。

その落差に彼女自身がついていけず、プライドだけはセレブ時代のまま、

薬をあおり、アルコールを浴びるように飲み、どんどん退廃していきます。

いやー、ケイト・ウィンスレット演じるジャスミンが圧巻でした。

「これが演技だったらスゴイよね」と感心するほど、顔も身体も精神も腐りきった感じに落ちていってます。

セレブ時代の遺物である「エルメスのバーキン」が痛々しいったらありゃしない。

観る側としては、もう悲惨すぎて笑うしかない、というレベルまで引っ張られるわけです。

さすがウディ・アレン。



ところで。

最近、ネイティブスピーカーとのマンツーマン英会話を習っているのですが、

この「ブルージャスミン」は全編通してすっごく英語が聞き取りやすかったです。

会話で使われる単語がベーシックなものばかりでとってもありふれていて、フレーズも中学英語レベル。

ところが、同じwowowで放送しているドラマ「エレメンタリー ホームズ&ワトソン」はお手上げ。

登場人物は早口だし、すごくインテリジェントな人たちが犯罪捜査の専門用語やら比喩表現やらを多用した会話を

縦横無尽に繰り広げているので、字幕を観ながら、英語を聞いても、ムリ〜です。





 


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